人気ブログランキング | 話題のタグを見る

やっさもっさ


by gnyamakkuroke

メモ

・物語を生命讃歌に帰結させることは簡単なことだ。そうするためのありとあらゆる手段は、すでにこの世に数多く用意されていて、語り手はそれらを注意深く配置するだけでその普遍的で単純な帰結を感動的な物語へと昇華させることができる。一人の人間のうちにおいて考え抜かれた結果でなくとも、忌憚なく安全な生命讃歌は時に人を安心させ生の続行を可能にさせる光明となりうる。
しかしそれは自覚的な場合においてのみ一時的に肯定して受け入れることが許される類いの事柄である。無自覚のうちに、それら形骸化した"誰かの思考の痕"のようなものを、現時点での自前の信念か何かと考え違いをしてしまうことは甚だ不細工な思考停止であると思うのだ。
物語とは、断じて読み手にそのような「思考停止状態」をもたらしてはならないものであると私は考える。

人の本質のひとつは「問うこと」であると思う。

そもそも人は、自らの性質や癖などを本人の「特質」であると多分に信じすぎている。実際にはそれらは、環境や経験により得たり得なかったりしたあらゆる事柄の現時点での顕れ方のひとつにすぎない。
ただの「状態」にすぎないものを自らの「特質」だと信じ込むことにより、人は多くの思考を必要としなくなる替わりに、糞の役にも立たぬ執着を得ることとなる。「こうでなければ自分にあらず」という幻想を貫くべく、そのために生じる衝突や不都合にいちいち係わり合いにならずにはおられなくなるのである。
人は、できれば「信念」や「自意識」を損なうことなく保持したい、というようなことを、薄らぼんやりとながらも常に感じている生き物であるらしい。
それは、人が自らのこしらえた「社会」において、「自己実現」を最上のこととする習慣を、もう長らく持っているせいであろうと思う。
唯一無二の個性であるところの自分というものが、自分らしくありつつ社会の内側において、望ましいかたちでの自己実現をはかる、
それこそが「社会人」たるもののまっとうな身の処し方であると信じられて久しい。
しかしそれらは、偉大なる(かどうか知らないけれど一応の敬意をこめてそう呼ぶものであるところの)先人たちが長年に亘って次世代へと受け継がせることに成功した「常識」であり、極端な言い方をするならば、宗教における「教義」と大差ない事柄であると思う。
ならば、現在の人の社会を作りあげている屋台骨の大部分は、長らく詳らかに検分されるこのとなかった得体の知れない異物ではないか。
これは言いすぎだろうか。言葉にするとどうも大げさでいけない気がする。
なんにせよ、われわれの大半は、過去に疑ってみたこともないであろう事柄ばかりを自らの「信念」や「常識」として飲み込んでいるということになる。

しかし、人の本質には「問う」ことがあると私は思う。問い、思考し、認識した結果がどのようなものであろうと、それこそそこには「個人差」というものが発生するのであって、どのような結果を得ようがそれを他者が忖度する筋合いはどこにもない。(思考の結果に基づいての「行動」には「責任」というまた別の筋が現れるが、それに関してはここでは言及しない。)
そうであるからこそ、それ以前の未分化の心理状態を指して「個性」とでっち上げるのは実に不誠実な態度ではないか。
何に対しての不誠実さであるかって?知性ある「人類」として生を享けたこと、に決まっているではありませんか。
物語にもし役割があるとすれば、それは人を「自らをして問いである自己に気付かせる」ことであると思う。そして願わくば、新しい方向へ向けたその体を少しだけそちらへ押し出すような力を持っていてほしい。
これ以上、甘やかされた常識に安住するような物語をわれわれは持つべきではない。
by gnyamakkuroke | 2008-06-20 17:43